im_sunの日記

政治や科学、歴史と。。様々なことについて共有したいと思います!是非一意見としてご覧ください。

コロナに関して

まずは事実確認。

経済開発協力機構(OECD)がまとめた最近のデータによると、人口1,000人当たりの病床数は日本が13.0床で、主要7カ国では、ドイツ8.0床、フランス5.9床、イタリア3.1床、米国2.9床、英国2.5床などに比べて圧倒的に多くなっている。

 

f:id:im_sun:20210402202912j:image 人口1000人あたりの病床数 出典:OECD

 

急性期の病床に限っても日本は7.79床で加盟国の平均3.6床に比べて2.2倍以上突出しています。病院数は2016年のデータでは、日本は8,442カ所と最も多く米国の1.5倍となっている。

しかし、日本のコロナ向け病床は約2万8,000床で、感染症への対応が可能な病床全体約73万床の4%弱にとどまるとされ、重症者向けの確保予定病床数も約3,600と横ばいの状態といわれている。厚生労働省の昨秋の調査によると、急性期病棟を持つ4,201病院の新型コロナ患者の受け入れ実績があるのは、公立病院53%、公的病院69%、民間病院14%だ。

 

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急性期病院の新型コロナ 患者の受け入れ実績 厚生労働省調べ 2020年9月末時点

 

コロナ病床がひっ迫する背景の1つとしては、医療スタッフ数が十分とはいえないことが指摘されています。OECD データによると 、日本の医師数は、人口1,000人当たり2.5人である。

 

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人口1,000人当たりの医師数の国際比較 出典:OECD

 

現在第四波が到来しているとの話が出ているが、これは統計で見ると誤差の範囲だと思う。はっきり言うとよく分からないという話だ。1000人あたりの病床数は多い、10万人当たりの感染者数は他国に比べて一桁くらい少ない、医者に関したは看護師を入れるとそこそこ多い方である。で、なぜ、医療崩壊なのか不思議である。

 

 

選択的夫婦別姓について

高市先生は日本固有の戸籍制度が非常に優れたものであり、夫婦別姓はその制度を破壊し、広範に及ぶ戸籍関連制度に支障をきたすことになる、という制度上の問題について詳しく説明してくださいました。

さらに、夫婦別姓にしなくても、旧姓の使用を認めることを義務付ける法を作ることで、これまで結婚した女性が感じてきた不都合などはほとんどが解消できる、という具体的な解決案についてもお話されていました。

私も、まさにおっしゃるとおりだと思って聞いておったわけです。

一方で、私は今日、夫婦別姓の話をするとあらかじめ聞いていたので、世の中の夫婦別姓推進者の主張はどんなもんかと調べてみました。

すると、東京大学教授でジェンダー学の専門である瀬地山角氏や日本学術会議問題で有名になった東京大学教授の加藤陽子氏など、夫婦別姓推進派の方々はみな異口同音に、名前というのは個人の人格

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の問題や自己決定権に関わる問題であると主張しています。

瀬地山氏に至っては「私の「瀬地山」という姓はたいへん珍しく、日本中に30人くらいしかいません。結婚でこの姓を失うのは、アイデンティティを奪われる耐えがたいことに思えた」とまで述べています。

元々は不便だから夫婦別姓を選択できるようにしようという話だったのが、今や、推進派の学者のなかではアイデンティティの問題にすり替わってきている。高市氏が不便に思っている女性を一刻も早く救いたいと法整備に尽力してらっしゃる一方、全然すれ違った議論が進んでいる。これが実態だと思います。

私がこの問題について強く思うのは、推進派の主張は、「不便」にせよ「自己決定力」やら「アイデンティティ」にせよ、徹頭徹尾自分のことしか考えていないんだな、ということです。

日本において結婚や夫婦というのは、男女個人の結びつきというよりは、家族の結びつきを意味します。それは日本の文化や伝統に関わることであり、他国と比較してどうこういうような話ではありません。

明治以降戸籍制度が導入され、日本の家族は戸籍によって一体感が保たれる側面があり、またそれをもとに社会保障や相続なども行われてきました。

今はどの家族もみな苗字、ファミリーネームを共有しています。

しかし、夫婦別姓を選択できるようになったら、「別姓夫婦」と「同姓夫婦」、「別姓家族」と「同姓家族」が混在することになります。

結婚すると、夫婦の名前や家族全員の名前を記したり登録したりする機会は、思った以上に多くあります。そのたびに、名前から、その人たちのイデオロギーがモロ見えになります。

あぁこのうちは夫婦同姓なんだ→古い考えの人たちなんだな、とか、このうちは夫婦別姓なんだ→奥さん、パヨクなのかな、めんどくさそうだな、といった負の判断が、不特定多数の人間によって名前を見ただけで下される可能性が非常に高くなるわけです。

子供が生まれれば、状況をさらに複雑になります。家族全員同姓→ネトウヨ家族だな、とか、子供と母親は同姓→パヨ家族だな、共産党なのかなとか、子供と父親が同姓→男尊女卑家庭だな、といった具合です。

子供にはなんの罪も意識もなくても、あの子はネトウヨ環境で育ってるとか、リベ左翼環境で育ってるとか、他者からそう見られるわけです。


受験や就職などの選考時に、名前だけで、誰もがこうした色眼鏡で見られることになるのです。いや、近所付き合いのレベルでもそうでしょう。同姓家族のひとたちはネトウヨだから、付き合わないようにしましょうとか、別姓家族はリベラルだから積極的に付き合いましょうとか、いくらでも考えられます。

夫婦別姓を選択できるというのは、選択肢が広がるだけで、誰一人損はしない、というのはウソです。

名前が「自己決定力」や「アイデンティティ」そのものだというならば、親が自分のエゴで勝手に子供の名前を決定することはどう正当化されるのでしょう?子供の意志や子供が被る不利益は無視でしょうか?

今の制度では、家族の名前から政治的イデオロギーが判断されるようなことは滅多にありません。しかし夫婦別姓が選択できるようになると、家族の名前から政治的イデオロギーが判断されるようになります。

戸籍制度の崩壊や家族の一体感の崩壊だけでなく、この「名前からイデオロギーがモロ見えになる問題」も、非常に重要だと私は思います。

結婚する一方が、自分の苗字を変えるのが死ぬほどつらい、どうしても変えたくないというならば、その苗字を二人で選択して名乗ればいいでしょう。両者とも譲らず折り合えないなら、結婚などすべきではありません。

名前の問題で折り合えない二人が、今後発生するさまざまな問題を話し合い妥協しあって乗り越えることなどできないだろうと、容易に想像できるからです。

だいたい結婚するというのは、人間にとってとてつもなく大きな変化です。結婚して苗字が変わったら私らしさが失われるなんていう人は、結婚なんぞしなければいいのです。夫婦というのは共同作業です。私が!私が!と我をはるような人は、結婚に向いているとは思えません。子供でも生まれれば、「私」なんて構っている場合ではありません。私らしさなんて、どこかに吹っ飛んでいきます。名前を変えるどころの話ではありません。

夫婦別姓推進派が、アイデンティティ云々のお気持ち論を唱え始めたら、名前からイデオロギーがモロ見えになる弊害をぶつけてみればいいと思います。

とにかく件の人々は、実に自己中心的で我儘です。どうにも我慢がなりません。

デフレとは

経済というのは、モノとお金のバランスで成り立っている。

 

デフレとは、お金の供給を長いこと怠ることによって、お金が極端に不足し、人々がモノよりお金を欲しがる「逆バブル」が発生することだ。

 

断言するが「良いデフレ」と言うものは存在しない。

なぜなら、デフレというものはモノの値段が下がるという現象に付随して、様々なデメリットを同時に発生させるからだ。最大の問題は給料が下がることによる失業だ。他にも住宅ローン破綻が増える、企業倒産が増える、と言った問題もある。

 

「モノの値段が下がる」という目の先の甘い蜜に納得してしまう国民は多いが、一部の人(財務省などの官僚)が価格下落の恩恵を受け、多くの人が失業や倒産によって人生を狂わせる、というのがデフレの真相である。

 

繰り返すが、デフレの原因は、世の中全体のモノとお金のバランスが崩れて、お金不足の状態が放置されていることにある。

要するに、お金>モノ の状態だ。

 

バブル崩壊後、日本経済が長期停滞に陥ったのはここにある。

デフレによって不景気に陥ることは日本の民主党政権時代で立証されたのだった。

 

つまり、このコロナショックによるデフレ及び不景気を乗り越えるためには、日本銀行がお金を刷り、政府の国債を買えばいいのだ。

 

 

医者知らずな人間へ

患者の一人として、子供の親の一人として、医者に掛かるのはよく吟味してほしいと思う。

 

医者は「病気を治す」のではなく、「症状を緩和してくれる」存在である。

 

「病気」とは、細菌・ウイルス・異物などで体が闘っている状態であり、体の異常を言う。

「症状」は病気が引き起こすもので、多くが人間の免疫系が起こしている正常な状態である。

 

この症状によって、自分の生命が脅かさされる時や症状に耐えられない・後遺症が疑われる場合などに、病状を診断し、薬を処方するのが医者なのである。

 

本来はゆっくり静養し、自分の免疫系を信頼し、この際、自分の抗体を作るようにすれば、似たような病気にはかかりづらくなる。

 

しかし、症状を緩和しにきた患者は薬を求めても、医者が「長期的に見ればあなたのためにならない」と言って薬を処方しなければ、患者はその医者を「やぶ」呼ばわりし、他の病院を訪ねることだろう。さらに、医者は薬を処方したほうが収益になる。そうして医者と患者の利害が一致するのだ。

 

生物の生活は周囲に細菌・ウイルス・発がん物質があることが前提になっていて、その環境下で免疫系が働いている。生物は常にいらないものは節約してしまおうとするので免疫系もその対象となってしまう場合もある。なんでもかんでも医者にかかれば、自分の免疫系がダメになり、結果的に病気になりやすい体になるのだ。

緊急の場合を除き、「症状」には手をつけず、「病気」の原因を除くことが望ましい。

クリスマス

クリスマスの起源はしばしばイエス・キリストの誕生祭と間違えられるが、あくまでキリストの誕生を祝う日であって降誕祭と言われる。因みにクリスマスの語源はキリスト・ミサ(カトリック教会における、聖体の秘蹟が行われる典礼)であり、教会暦では日没を1日の境目とするので、12月24日の日没から12月25日の日没までがクリスマスとしている。

 

少しクリスマスの歴史を見てみると、古代ローマ時代、ミトラ教では12月25日を「不滅の太陽が生まれた日」とし、太陽神ミトラを祝う冬至祭であったが、これを引き継いだソル・インウィクトゥス(ローマの太陽神)の祭りを転用したものと言われている。サンタクロースもクリスマスツリーも後々、他の文化と融合されて出てきたものである。サンタクロースはキリスト教の聖人である奇蹟者聖ニコライの伝説が起源とされているが、クリスマスツリーは中世ドイツの神秘劇でアダムとイヴの物語を演じた際に使用された樹木に由来している(飾りは19世紀以降のアメリカに始まる)。

 

しかし、現在アメリカのメディアでは宗教的中立の観点からキリシタン以外の方に配慮し、「メリー・クリスマス」ではなく「ハッピー・ホリデーズ」に言い換えられ、キリシタンからは批判の声も挙がっている。いわゆるポリティカル・コレクトネスである。

 

日本では、明治以降西欧の文化を取り入れるようになるにつれて普及していき、1920年12月25日に大正天皇崩御されて1927年に休暇法 「休日ニ関スル件」が改正されると大正天皇祭として休日になったことを期に、よりクリスマスの習慣が普及していった。しかし、1948年、連合国の統治下にあった日本では「国民の祝日に関する法律」が施行され、大正天皇祭は休日から外されることになり、以降クリスマスのみが年中行事として定着し、行事も盛大に行われるようになったのである。

 

 

 

何故、地球温暖化という環境問題は出てきたのか

まずは、最近の環境問題を見てみる。

 

1960年代から人類は「自分たちがやってることに問題がないか」という疑問に取り憑かれ、殺虫剤DDTの追放に始まって、農業、食品添加物人工甘味料など薬品に関する疑問から、ダイオキシン環境ホルモンにまで発展した。一方、資源の枯渇、大気の汚染、ゴミ問題などからは、節約運動、大気汚染防止、分別リサイクルなどに発展した。

 

しかし、このような環境問題のほとんどは「間違い」であったが、この環境問題の多くが社会的背景があり、思想や権力と結びつき、「科学」という名の下で力を発揮していく。そうして、メディアの煽りもあって激しさを増し、正しく地道に研究している研究者を学会や社会から追放していく。

 

こんな世の中でも誠実で地道に研究している研究者にも救いがあった。それは、社会が騒ぐのは一時的で、じっと我慢していればそのうち、吹き荒れた逆風が収まってくるということだ。と言うのも、社会が飽きてくると言うこともあるが、なんと言っても科学だから、事実がはっきりしてくるのだ。

例えば、リサイクルは現実に実施されないし、ゴミもあふれない、ダイオキシンも日本のように対策をとった国でも、全く野放しの国でも患者が出ない、環境ホルモンではオスがメスになるという事例が増えない…などだ。

 

しかし、環境運動も変わってきて、「一世代でははっきりしないことを大袈裟に言う」という方針に転換した。

 

そこで出てきたのが「地球温暖化」と言う環境問題なのだ。

(次の記事で地球温暖化のトリックに切り込む)

日韓併合

韓国では日本に植民地化されたー!と糾弾している。

 

韓国併合とは合併のことであり、朝鮮半島を日本にしたのであり、いわゆる「植民地(=搾取する土地)」化したのではない。搾取したものがあるなら教えて頂きたい。逆に日本は計り知れないほど大規模な投資をして、荒れ果てた朝鮮半島を栄えさせている。英語で言うなれば、植民地はcolonyであるのに対して、朝鮮半島はテリトリーであるのだ。それに、日本の法律が適応され、選挙権まで持っている。日本人になることも許されていたというのに、それを植民地化と言うのだろうか。周囲の植民地を見れば、日本がそうでなかったことは一目瞭然である。

 

勘違いする日本人も多いので。以上。