im_sunの日記

政治や科学、歴史と。。様々なことについて共有したいと思います!是非一意見としてご覧ください。

選択的夫婦別姓について

高市先生は日本固有の戸籍制度が非常に優れたものであり、夫婦別姓はその制度を破壊し、広範に及ぶ戸籍関連制度に支障をきたすことになる、という制度上の問題について詳しく説明してくださいました。

さらに、夫婦別姓にしなくても、旧姓の使用を認めることを義務付ける法を作ることで、これまで結婚した女性が感じてきた不都合などはほとんどが解消できる、という具体的な解決案についてもお話されていました。

私も、まさにおっしゃるとおりだと思って聞いておったわけです。

一方で、私は今日、夫婦別姓の話をするとあらかじめ聞いていたので、世の中の夫婦別姓推進者の主張はどんなもんかと調べてみました。

すると、東京大学教授でジェンダー学の専門である瀬地山角氏や日本学術会議問題で有名になった東京大学教授の加藤陽子氏など、夫婦別姓推進派の方々はみな異口同音に、名前というのは個人の人格

ここから先は有料部分です
の問題や自己決定権に関わる問題であると主張しています。

瀬地山氏に至っては「私の「瀬地山」という姓はたいへん珍しく、日本中に30人くらいしかいません。結婚でこの姓を失うのは、アイデンティティを奪われる耐えがたいことに思えた」とまで述べています。

元々は不便だから夫婦別姓を選択できるようにしようという話だったのが、今や、推進派の学者のなかではアイデンティティの問題にすり替わってきている。高市氏が不便に思っている女性を一刻も早く救いたいと法整備に尽力してらっしゃる一方、全然すれ違った議論が進んでいる。これが実態だと思います。

私がこの問題について強く思うのは、推進派の主張は、「不便」にせよ「自己決定力」やら「アイデンティティ」にせよ、徹頭徹尾自分のことしか考えていないんだな、ということです。

日本において結婚や夫婦というのは、男女個人の結びつきというよりは、家族の結びつきを意味します。それは日本の文化や伝統に関わることであり、他国と比較してどうこういうような話ではありません。

明治以降戸籍制度が導入され、日本の家族は戸籍によって一体感が保たれる側面があり、またそれをもとに社会保障や相続なども行われてきました。

今はどの家族もみな苗字、ファミリーネームを共有しています。

しかし、夫婦別姓を選択できるようになったら、「別姓夫婦」と「同姓夫婦」、「別姓家族」と「同姓家族」が混在することになります。

結婚すると、夫婦の名前や家族全員の名前を記したり登録したりする機会は、思った以上に多くあります。そのたびに、名前から、その人たちのイデオロギーがモロ見えになります。

あぁこのうちは夫婦同姓なんだ→古い考えの人たちなんだな、とか、このうちは夫婦別姓なんだ→奥さん、パヨクなのかな、めんどくさそうだな、といった負の判断が、不特定多数の人間によって名前を見ただけで下される可能性が非常に高くなるわけです。

子供が生まれれば、状況をさらに複雑になります。家族全員同姓→ネトウヨ家族だな、とか、子供と母親は同姓→パヨ家族だな、共産党なのかなとか、子供と父親が同姓→男尊女卑家庭だな、といった具合です。

子供にはなんの罪も意識もなくても、あの子はネトウヨ環境で育ってるとか、リベ左翼環境で育ってるとか、他者からそう見られるわけです。


受験や就職などの選考時に、名前だけで、誰もがこうした色眼鏡で見られることになるのです。いや、近所付き合いのレベルでもそうでしょう。同姓家族のひとたちはネトウヨだから、付き合わないようにしましょうとか、別姓家族はリベラルだから積極的に付き合いましょうとか、いくらでも考えられます。

夫婦別姓を選択できるというのは、選択肢が広がるだけで、誰一人損はしない、というのはウソです。

名前が「自己決定力」や「アイデンティティ」そのものだというならば、親が自分のエゴで勝手に子供の名前を決定することはどう正当化されるのでしょう?子供の意志や子供が被る不利益は無視でしょうか?

今の制度では、家族の名前から政治的イデオロギーが判断されるようなことは滅多にありません。しかし夫婦別姓が選択できるようになると、家族の名前から政治的イデオロギーが判断されるようになります。

戸籍制度の崩壊や家族の一体感の崩壊だけでなく、この「名前からイデオロギーがモロ見えになる問題」も、非常に重要だと私は思います。

結婚する一方が、自分の苗字を変えるのが死ぬほどつらい、どうしても変えたくないというならば、その苗字を二人で選択して名乗ればいいでしょう。両者とも譲らず折り合えないなら、結婚などすべきではありません。

名前の問題で折り合えない二人が、今後発生するさまざまな問題を話し合い妥協しあって乗り越えることなどできないだろうと、容易に想像できるからです。

だいたい結婚するというのは、人間にとってとてつもなく大きな変化です。結婚して苗字が変わったら私らしさが失われるなんていう人は、結婚なんぞしなければいいのです。夫婦というのは共同作業です。私が!私が!と我をはるような人は、結婚に向いているとは思えません。子供でも生まれれば、「私」なんて構っている場合ではありません。私らしさなんて、どこかに吹っ飛んでいきます。名前を変えるどころの話ではありません。

夫婦別姓推進派が、アイデンティティ云々のお気持ち論を唱え始めたら、名前からイデオロギーがモロ見えになる弊害をぶつけてみればいいと思います。

とにかく件の人々は、実に自己中心的で我儘です。どうにも我慢がなりません。